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ひとり言が多くなる...。
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かつての下級生達と同級生になった僕は、そのまた更に下の新入生達に混じってドラムの授業を受けることにしました。

そこにいたモヒカンの男こそ、小倉モッフィー北斗でした。
見た目通りのパワードラムに加えて、テクニックも持ち合わせており、新入生のドラマーの中でも一目置かれる存在であったと記憶しています。

それに対して、新入生たちと比べても決してドラムがうまくなかった僕。本業のベースでも、かつて見おろしていた元同回生に並ばれ、天狗になっていた僕の鼻はバキバキにへし折られていました。

ドラムで毎日エイトビートを練習していたせいか、エイトビートをバカにする気も失せ、シングルストロークロールのアクセント移動をベースに応用することで、ルート弾きに対する嫌悪もなくなりました。

その頃の授業に、バンドを組んでオリジナル曲をレコーディングする授業がありました。僕は女の子二人組のシンガソングライターユニットのバックを担当。
初めてピアノと一緒に演奏することになり、ピアノの左手をライバル視。「ユニゾン」に嫌悪感を覚える。


つづく
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バックビートのセッションにて、現在グルーヴシネマ極でギターを担当する澤崎氏に出会っていたことを後に知りました。

自分から話しかけた(らしい)くせに覚えちゃいない。申し訳ないです。


学校で別れた女の子に会いたくなかった僕は、下級生に混じってドラムの授業を受けていました。

その時お世話になったのがU先生です。卒業した今でもお世話になりつづけております。
U先生にはバイトまで紹介していただき、大阪に住んでる間はずっとそこで働いてました。クビにならずに丸3年間も働いたのは実はそこだけ。

よく頑張ったと、自分を誉めてあげられるのはその一点だけ。
おかげで少しはましな人間になれた気がします。


さて、学校生活も三年目に突入。別れた女達が居なくなってようやく授業に復帰。

こないだまで下級生だった子たちと、今度は同級生として向かいあうことになりました。
ドラムの授業ですでに顔を合わせていたので、特に違和感はありません。ベースを持っていること以外は。

ただ、卒業後も研究生徒して学校に残っていた同期生達の上達ぶりにはびっくりしました。僕がサボっていた一年の間に彼らは腕をあげ、すでに差はなくなってしまっていたのです。



つづく
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「ファンキー」にかぶれ、エイトビートを否定するようになった僕。

とうとうB'zへの情熱すらも失ってしまいました。

それに変わって台頭してきたのはレッドホットチリペッパーズ。再びミクスチャーに戻ります。
JBやらPファンクにはいかないあたりが浅はかです。
ファンクの「フ」の字もわかっちゃあおりません。


その頃は学校のアンサンブルよりもR.P.M.のスタジオ練習や、BACK BEATで毎週行われていたブルースセッションの方が楽しくて、学校すらバカにしていました。いや、別れた女の子達に会いたくなかっただけ。
学校にいかずに車の教習所に通ってました。

情けない限りです。


バックビートに通うようになってからは「3連符」や「即興演奏」を覚えました。

ますますエイトビートを否定するようになり、「アドリブ」と称して「デタラメ」を弾いて満足しておりました。
ブルースの「ブ」の字もわかっちゃあおりません。
浅はかですねぇ。

その頃レッドツェッペリンを聞いておりました。

聴いてはいません。聞いてるだけです。

音楽の「お」の字もしらない小僧ですから。

つづく
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B'zのGREENツアーで生で見たビリーシーンはやはり超絶でした。

この後大阪の音楽の専門学校に入学しB'zのコピーバンドを組んだところで僕のB'zにたいする情熱は絶頂に達します。

ところで、この当時僕はかなり調子にのってました。
演奏の腕前のみがステータスであったこの学校において、僕のクラスには僕より上手い子がいなかったのです。
嘘でも自慢でもありません。当時20歳であった僕に対して、クラスメイト達は18歳。この時期の2年の差はかなりでかい。

僕が上手かったのではなく周りが未熟だった。ただそれだけのこと。
とはいえ、周りの子達から「上手い上手い」ともてはやされ、調子に乗った僕は、ライトハンドを披露したりスラップを披露したり、理論を教えて「あげた」り、複数の女の子と同時に付き合ったり。

浅はかですね。
当然音楽の「お」の字もわかっておりません。

話は戻って、B'zのコピーバンドは京都に向かいます。
その場所こそ今出川の「BACK BEAT」。
我が師「マスター」との、それが最初の出会いでした。その日マスターから新しいベースを探している人達がいるからと紹介して頂いたのが「R.P.M.」でした。

新たな活動の場を得た僕は、そこで「ファンキー」という概念を教わり、「8分音符」と「ルート弾き」を否定し、「16分音符」と「休符」こそがベース弾きの最重要課題だと思うようになりました。
第二次テクニック志向のはじまりです。

浅はかですね
当然音楽のおの字もわかっておりません。


つづく
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ビリーシーンのベースに憧れ、
ラップメタルの攻撃性に触れ、
かつて憧れた超絶テクニックを「速いだけ」と訳知り顔でバカにするようになった僕。

このころ、機械にプログラムすることによる演奏、いわゆる「打ち込み」と呼ばれる手段を手に入れた僕。初めは自分の練習の為に市販の楽譜を丸々プログラミングしていたのですが、その過程で音楽理論を少しづつ学び、曲に自分のアイデアを盛り込むことに悦びを見いだすようになる。

そして同じリフが延々と演奏されるラップメタルやミクスチャーよりも、より音楽的に変化に富んだ曲を好むようになる。

ほんの少しではあるが音楽にも成長し、それまでバカにしていたビリーシーンの「速さ」以外の部分にも価値を認めるようになる、アンチテクニックの呪縛からは解放される。

かといってハードロックに再び目覚めたわけではなかったが。



ところで、これまで三段階の音楽的進化?を遂げてきた僕だが、その間B'zに対する興味だけは一貫していた。

僕が最も速さに憧れた初期の頃、「Brotherhood」というアルバムに収録された楽曲の半分をビリーシーンが担当していた。

その後、ハードロックに興味を失う過程で、日本屈指の速弾きギタリスト「松本孝弘」を擁するハードロックユニットB'zに対する興味も捨て去られるはずであった。

しかし、次に彼らが出した答えは「ELEVEN」というタイトルのミクスチャーアルバムだった。
速弾きを否定した僕は、松本の作り出したミクスチャーリフは受け入れた。
彼らに攻撃性があったとは思わないが、表面しか見ていない僕には十分だった。

その後理論武装をはじめ、単調さを否定しはじめた僕。

そんな中彼らが発表したアルバムは、彩り豊かでポップ色の強い「GREEN」だった。
さらにそのアルバムに伴うツアーのサポートメンバーとして起用されたのがビリーシーンというオマケ?つき。

この時点までの僕の音楽観の側にはB'zがあった。いやむしろ単に最初からB'zだけが僕のヒーローだったのかもしれない。


つづく
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プロフィール
HN:
山本ヤスヒロ(楽団ひとりZ)
年齢:
41
性別:
男性
誕生日:
1983/02/14
職業:
音楽家
趣味:
CD収集
自己紹介:
京都府在住。E.ベース(フレットレス&フレッテッド)弾いてます。ソロライブやってます。バンドもやってます。レッスンもやってます。育児もやってます。元気で演ってます。
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